第1回皆生トライアスロン大会参戦記

第1回皆生トライアスロン大会 報告

1981年(昭和56年)8月20日、日本で最初のトライアスロンが、鳥取県皆生(かいけ)温泉を中心に開催されました。今(2016年)から35年前のことですが、鎌田はたまたまその第1回大会に参加しました。第1回大会を知っている当事者も少ないと思います。記憶をたどって、その内容の紹介をさせていただきます。

皆生温泉とは、鳥取県のほぼ中央、米子市から北へ4kmほどの、日本海に面して広がる、温泉地帯です。関東では皆生温泉を知っている人は少ないですが、関西では、大阪・神戸の奥座敷として知られる有名な温泉で、関東の熱海と言った感じでしょうか。
35年前の皆生温泉は、今の皆生温泉とは異なり、より風俗性が強く、家族連れや若い女性は訪問を敬遠する傾向があったと聞いています。

当時の皆生温泉は、歓楽性が強かったため、皆生温泉旅館のオーナーのボンボン達が、このままでは、温泉地帯が斜陽になるとの危機感を持っておりました。皆生温泉街でも健全路線への転換を目指して、小規模ですがテニスコートやスイミングプールの導入を思考錯誤的に開始しておりました。(ちなみに、後のシドニーオリンピック代表になる小原工氏は、そのプールでの指導員でした)

トライアスロンは、1971年にサンノゼで、1979年からはハワイで始まっており、1981年のハワイ大会は、週刊誌で日本にも紹介され、知る人ぞ知るイベントとなり始めました。
熊本県の医者を中心とするグループが1981年にハワイコナに参加したのが、日本人初の参加と思います。

ハワイ大会は、79年は12人参加、80年は15人参加で81年1月の第3回大会で初めて参加者が104人と、大会の体をなしています。そのような折、トライアスロンなる競技がハワイで始まったらしいとの情報が流れ、ボンボン集団が、「皆生でもやろう」と言い出したのが始めと聞いております。日本で81年に実施しようと企んだのは、中々の先見性だったと思います。

皆生温泉のボンボン達が、熊本の医師団アスリート(その後の熊本CTC:クレージートライアスロンクラブとなり、その後の色々なトライアスロンシーンで顔を出す、名門です)を訪問し、顧問としての指導を受ける約束をして、皆生トライアスロンの骨格ができてきたと、聴いております。(熊本県からの第1回大会参加者は53人中9人で、地元鳥取県の12人に次ぐ大勢力でした)

私が、この大会の開催を知ったのは、’81年の5月頃の朝日新聞で、小さな記事か出たのがきっかけでした。7月か8月にウルトラレースがあるので、希望者は以下に連絡を取るようにとのことでした。その後大会は8月20日(日)と決定し、参加メンバーを集めた訳です。このとき私はすでに32歳になっておりましたが、初島熱海の団体遠泳に毎年参加しており、参加にはほとんど抵抗感ありませんでした。一人で参加するのも寂しい気がしたので、中学の同級生2名を誘って、申し込んだ訳です。

皆生のレースは、スイム→バイク→ランの順に行うことは判りましたが、今でいう、トランジションやエイドステーションがどの様になるか、イメージはまるで無しでした。スイム-バイク-ランなどいう用語は競技説明書にはなく、水泳-自転車―マラソンとの古風な用語だけしか発見できません。

大会参加者は53名ですから、大会役員、ボランティア、報道陣のほうが遥かに多人数の大会だったと思います。私の大会の印象は、スイムは楽に終わったのですが、バイクは厳しかった記憶があります。バイクコースは、最近の大会でも使われており、今走ればなんというものでもありませんが、当時は「激坂」の印象で驚きました。たぶん20%くらいの参加者が、降りて押していたと思います。ランコースは海辺のほとんど高低差が無いコース設定で、境港方面に走り折り返すコースで、道路の保守状況は悪かったのですが、私は明るい時間帯にゴール出来たので、苦労をした覚えはありませんでした。コースの途中に煮干しをつくる工場があり、その工場の脇を走ったとき、独特の臭いがしたのですが、その後の大会では無くなってしまいました。35年も前の臭いの記憶が残っているのも、面白いと思います。。17位でゴールすると、ホテルの宴会場でビールパーティが始まっておりました。
スイム2.5Kmを40分9秒、バイク63.2Kmを3時間42分ラン36.5Kmを3時間32分43秒でした。バイクは此のころから遅かったのですが、パンクで苦労したので(後述)こんなものかもしれません。スイムとランは若さ故の記録です。完走した後は、強い昂ぶりが数週間続いたことを覚えています。「俺はトライアスロンなる凄いことをやり遂げたのだ」との感覚です。

大会翌日の、朝日新聞の夕刊に紙面のほぼ半分を使って皆生大会が紹介されています。しかし紙面のタイトルは「のん気で楽しい鉄人レース」です。内容も「まるでピクニック気分」「砂利道ではパンク者続出」「お祭り騒ぎの十五時間にわたるレースは月に照らされた中で幕を閉じた」優勝した高石ともや氏談も「これは大人の遊びみたいなものですから・・・、現代の日本人に欠けているもの・・・落とし物を見つけたような気分です」高石氏はこの2年前の京都マラソンで2時間45分を出しているし、それなりのトレーニングは積んできていた訳ですがこのような感想を述べておりました。

皆生の第1回大会は、1回目だったために、その後の大会とはやや異なるローカルルールもありました。それらの幾つかを紹介させていただくことにします。

ウエットスーツ着用禁止:この大会では、ウエットスーツは禁止でした。「水中メガネは使用可能」でしたが。ちなみに、ウエットスーツが使用可能になるのは25回大会(2005年)からで、必須になるのは30回大会(2010年)からです。皆生では何か、ウエットスーツに対するアレルギーが長くあったのかもしれません。2000年ごろの皆生大会で、500人を超す泳者が、ウエット無しの生足・生手のいわゆるNakedで泳ぎだす美しい景観は、今の黒いウエットスーツの集団の泳ぎからは、全く想像できないものです。もうこの景観を見ることは永久に無いでしょうが。

2.5Kmの直線コース:最近のスイムのコースは周回コースが多く、それも2回周回もありますが、皆生の第1回大会では、海岸を直線に西から東へ泳ぐ、コースを設定しました。海流は常に、東から西に流れていたので、潮に逆らって泳ぐことになり苦労しました。良く2.5Kmの直線を、設定したと思います。当初の競技規定では3.2Kmの直線を泳ぐ計画でしたが、堤防の工事が間に合わないとのことで、前日の競技説明会で、2.5Kmの短縮となりました。直線コースなので、スイム開始地点とスイム完了・バイクトランジションまでの距離は2.5Kmあり、大きな会場設定でした。(ちなみに第2回大会は3.0Kmを、沖に停泊した船を回るコースで、それ以後は海岸に沿って泳ぐ往復コース設定となりましたが)

タクシーでの移動(スイム→バイク):スイム完了後、浜に上がりバイク用のコスチュームに着替えます。しかしそこにはバイクはありません。バイクのスタートはスイムのトランジションから4Kmほど離れた地点で、その間の移動をタクシーで行いました。タクシーでの移動時間は平均15分くらいだったと記憶します。タクシーは経費の関係か台数の関係か、4人~5人乗ることが推奨され、その人数に達するまで、「到着選手数達成待ち」でした。参加人数が53人でしたから、10台程度のタクシーを確保していたのかもしれません。そんな訳でスイムでの10分くらいの差は、「選手数待ち」で吸収されていたはずです。事実私は、スイム8位でしたが、着替えに成功して、第1号車のタクシーに乗ることができました。この車には、私より5分速く3位でゴールした北村文敏氏がすでに乗っておられましたが、この5分はチャラとなりました。バイクのスタートは、タクシーが止まった地点からバイクラックまで走って(約100m)、バイクをラックから下して飛び乗りです。私のスタート順位は北村氏に次いで第2位で、このバイクスタートの公式順位は私の35年のトライアスロン人生の、最高順位となりました。

バイクの未舗装区間:バイクはT字コースの完全折り返し63.2Kmでしたが、その中で3.2Kmの往復合計約6.4Kmが、未舗装でした。その区間は、バイクを下りてランで押すべきだったのでしょうが、私はそのまま突っ込んで、あっとゆうまの、パンクでした。直前にチュブラータイヤ付きのロードレーサを買い、タイヤ交換の練習も十分でなく、当時のタイヤとリムはサイズが不安定で、セットしづらく、タイヤがまるで嵌らなくて、苦労しました。見かねた応援の女性が手伝ってくれて、「エイや」とタイヤを嵌めてくれました。今思えば物凄い怪力です。(第2回大会も未舗装区間が残っていたと記憶します)

ヘルメット着用:「ヘルメット着用」との指示はありましたが、どのようなヘルメットかの、指示はありませんでした。当時はオートバイですらヘルメット着用の義務はなく、ましてや、「バイクのヘルメット??」てな感じでした。私は、ポリエチレンの柔らかいヘルメットを購入してかぶりましたが。当時のレースの写真を見ると、まるでかぶらない人、鳥打帽子をかぶる人、工事用のアルミのヘルメットをかぶる人等、大会本部ではほとんどノーコントロールでした。

バイクのバラエティ:当時はロードレーサは、非常に珍しい存在でした。世間ではスポーツ車と言えば、サイクリング用の軽快車かランドーナーが、中心でした。53台のバイクの構成は、正確には数えておりませんが、ランドナーが1割、軽快車が7割、荷物運搬用の、変速ギヤが無いバイクも1割くらいあつたと思います。

クリート:バイクのクリートも現在のビンディング式は、まだ発明されておらず、革のベルトをトゥークリップに通し、ペダルとシューズを巻いて固定するタイプでした。私はもちろんそんな怖いものは使えないので、トゥークリップを外し、踏み込み専用の、通学ペダル風にして使用しました。ビンディング式ペダルの使用は、バイクレーサーからの転向者が持ち込むまで、数年のブランクはあったと思います。

タクシーでの移動(バイク→ラン):トランジション1で説明した逆を、バイク終了後、ラン開始まで行います。何故、バイクの終了点からランの開始しなかったのかの、理由ははっきりしません。タクシーでの移動中は、まだバイクのウエアなので、冷えたりしますが、青く終了後の5人到着は、待ち時間がスイム終了より長くなり、30分くらいのトランジションタイム(待ち+移動)があったように思います。帰りのタクシーでは、運転手が自分の知っている道でショートカットで走り、先発のタクシーを後発のタクシーが追い抜いて到着して、トラブルが生じたとも聞いております。

歩道上の走行: 最近の多くのトライアスロンでのランは、車道を走らせておりますが、皆生大会のランは基本的に歩道上だけのランが許されておりました(この原則はまだ続いていると思います)。当時の歩道の整備状況はあまり良くないので、横断歩道での車道への下りと車道からの登り、小さな穴、水溜り、草、砂利、割れ等、転ばぬようコースを注視して走った思いがあります。国道9号脇の歩道の最小幅は今も50Cm位のところが多く、夜間のランでは、道路が全く見えなくなり、苦労は変わりませんが。

歩道橋の通過:第一回大会では同一の歩道橋を南北に2回わたることになっていました(現在は3回ですが)。ランコースは東西に走る国道9号を北から南に横断するコースだったので、信号を避けたのだと思います。しかし歩道橋の東西どちらかの信号を渡れば、歩道橋など渡る必要はないのですが、不思議な選択です。大会の関係者は此の歩道橋を「皆生の名物だ」と言っておりましたが、その後35年間なぜこの歩道橋横断を、コースに残しているかは謎です。皆生のランは、当初より信号順守が規定となり、全コースで約100の信号を守る必要があります。信号待ちで失われる時間は、1か所平均30秒として、合計では、30分にもなります。ランにおいては、信号の赤/青の変わるタイミングを遠距離から見て予想して、待ち時間が少なくなるよう、スピード調整をする技術も、必要になっているようです。

体重測定:ランでの安全確保のために、体重を測定し、ランのスタートより2Kg以上体重が減少したら、失格の可能性があるとされました。タニタのヘルスメータ風の体重計を、スタート、折り返し、および中間地点の4か所に置いて計るとの説明でした。結局体重は、スタート地点と折り返し地点の2か所で測定しましたが、体重減での失格者は無かったようです。

記録:総合時間:表彰状等の大会の記録は①スイム、バイク、ランの各スプリットタイムと②総合記録が発表されました。各スプリットタイムは、各々の競技のスタートよりゴールまでの時間を表示しましたが、総合記録は、スイムスタートよりランゴールまでの全体経過時間より一律に1時間を差し引いた値としました。なぜ、総合時間を、スイムスタートよりランゴールまでの全体経過時間を使わずに、一律値(1時間)を引いたのかは謎です。ちなみに第2回大会からの総合時間は、スイムスタートよりランゴールまでの全体経過時間を「総合時間」としており、一律値の差し引きはしておりません。
皆生大会の意味に関して
皆生大会は、2016年には35回大会を迎えようとしています。皆生大会は日本でのトライアスロンにどのような価値があったのでしょうか、少し考えてみます。
① 日本初のトライアスロンの大会だった:81年には、皆生以外に湘南ハーフが行われています。皆生が無ければその後の宮古や琵琶湖も少し変わった大会になっていたと思います。皆生大会は、その後の大会の「雛形」として役割を演じたと思います。
② 4回大会までは、日本で最も権威ある大会だった:83年の第3回大会では、梅澤智久氏が、84年の第4回大会では中山俊行氏が優勝し、それぞれ日本1位を名乗りました。85年には、宮古島大会と琵琶湖のアイアンマンがスタートし、皆生大会の位置づけも、日本第3番目になったと思いますがそれまでは、「日本で最も権威のある大会」だったと思います。
③ 独立系で実施してきた:宮古、アイアンマン、佐渡など大きな大会は大企業等のスポンサーが付いて運営しておりますが、皆生は大きなスポンサーが着かず、手弁当大会に特徴があるようにも感じます。また皆生開始時点では、トライアスロン関連の協会、団体、当然JTUまだ無かった点もあり、以後、協会群とも一定の距離を保っているようです。それでも最近の皆生大会は、鳥取県や米子市の活動の一部に組みこまれてきましたが、まだローカル性が強く、独特の香りを出していると感じます。
④ 日本のトライアスロンの文化に影響を与えた:現在のトライアスロンの大会での、手を繋いだ同着ゴールや応援の方々との同伴ゴールは、皆生大会が影響を与えている可能性も大きいと思います。第一回皆生大会では、高石ともや氏と下津紀代志氏が1位でありながら手を繋いでゴールし、「トライアスロンには着順より大切なことがある」とのメッセージを発信したと思います。最近のアイアンマン系の大会ではでは、故意に手を繋いだゴールは禁止しておりますし、同伴ゴールも禁止していると思います。
⑤ 35年間継続してきた
日本のトライアスロンは、81年の皆生に始まり、81年は他に湘南ハーフも始まっています。82年にはさらに多くの大会が始まっているはずですが、その多くは中断していると思います。大会の開始は困難なことですがその継続はさらに困難なことだと思います。事実、皆生大会も90年代の中ごろは、財政的な問題もあり中断を考えた時もあったようです。90年代は1回だけですが、参加費以外に篤志家に対して、寄付金の要請をしたこともありました。その他多くの困難を乗り越えてここまで継続したことは大変だったと思います。皆生大会を立ち上げた、当時のボンボンの方々は、その後の大会でも気安く声をかけていただきました。しかしその多くの方々も亡くなり、又は引退されました。しかし良い立派な大会を立ち上げ、後継者に引き継ぎ、立派な足跡を残され、その業績は誇るべきものと考えます。
最後に個人的な話ですが、私は全36回(2016年)の皆生大会のうち、29回の大会に参加させてもらっています。そのうち24回は連続出場です。最初に参加した中年だった32歳から最後の参加では高齢者の64歳まで、お世話になりました。最近3回は連続の落選ですが、残りの人生であと数回、参加させていただきたいと考えています。申すまでもなく皆生の大会は私の人生の大きな柱でしたし、多くの感動をもらいました。皆生には言葉では申し上げられないくらいに、多くのものをいただきました。有難うございます。
今後とも末永く皆生トライアスロンが続くことを祈って、第1回大会の紹介終わらせていただきます。

写真1:スタートで。中央でゴーグルを触っているのが鎌田。右側のキャップ無しが、高石ともや氏。皆、緊張している。

鎌田理事ビーチエントリー状況
鎌田理事ビーチエントリー状況

写真2:第1回大会参加者のステンレスプレート。現在もスタート地点に貼ってある。

皆生トライアスロンの碑
皆生トライアスロンの碑

「第1回皆生トライアスロン大会参戦記」への2件のフィードバック

  1. 鎌田さん
     ご無沙汰しております。
     読みながら第1回皆生大会を懐かしく思い出しました。
     いくつか誤認されているところがあるようです。
    とりあえず私の名前 文俊 です。
     ご連絡いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
    ps
    今年の36務回大会で何とか完走し、4年ぶりに復活しました。おまけに大会永久出場権という栄誉までいただきました。

    1. 北村さん、コメントありがとうございます。北村さんのお名前を間違えてしまい、申し訳ありませんでした。36回大会での完走、おめでとうございます。永久出場権もすごいですね。私は3回連続して落選で、少々落ち込んでいます。またいつか、皆生で一緒に走れることを楽しみにしております。

      文章の内容で誤認箇所があるとのこと、お教えいただければ、修正させていただきたいので、遠慮なくご指摘ください。

北村文俊 へ返信する コメントをキャンセル

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